個展"Go Whenever You Want to"終了しました
はじめに
つらくも七瀬個展"Go Whenever You Want to"
2016.6.27~10.1 伏見地下街夢画廊にて
無事に、終了いたしました。
今回、展示の一週間前に腎盂炎を患い、それから2週間寝込むことになってしまいました。そのため在廊がほとんどできないという状況での展示になりました。
それでも、たくさんの人に支えられ、たくさんのお客さんをお迎えすることができ、沢山の応援の言葉や感想を頂くことができました。ありがとうございます!
展示テーマは「望むことをせよ」。希求する世界に向けて、生身の肉体を抱えて歩み続けた精神が何か少しでも形を成してたのなら本望です。
…私はそれをほとんど一人で成さねばと思っていたのですが、最後になって、沢山の人に助けられ、人と関わり交流することの力にはっとさせられました。よい展示でした。
感想
いろんな方から嬉しい感想をいただきました。ありがとうございます。
作品解説
今回在廊できなかった代わりに、作品解説用紙を会場に設置しました。
個展に来られなかった方へ、その雰囲気を味わってもらうために
そして個展に来られた方には、その思い出の引き金のために
ここにも作品解説を載せておきますね。
1.世界の中の夕暮れ 2016.06.
朝焼けの世界を見ながら、夕暮れの世界を考えることがある。世界の音を聴きながら、心の中の音を感じていることがある。五感のもたらす認識と、脳内に広がる感覚の、不可思議な結合と分離のことを考えている。
2.夢に見る日 2016.03.
ライブペイント作品。自身初の大型絵画。野外で、観客の目に晒されながら、あえて客を意識せず、自己の内面を見つめながら描こうとした。この作品が後の作品制作にもたらした効果は大きく、地下に伸び広がった根のような作品である。
3.持ち主の見た世界 ~2016.09.~
私は生活の中/旅の中で、岩石やその他こまごまとした物体を拾い集めるのが趣味である。どんな小さな石の一粒でも、それを自分の所有物にすると決断したとき、そこには何かしら心の動きがあった――そんな曰くつきの石たちだが、それを知らぬ人から見れば、石はただの石であり、私の見る世界とあなたの見る世界はどうしようもなく隔てられている。しかし同時に、あなたがこの石たちを見た時心の中に抱いた感覚を、私が知り得ることもまた無い。我々はそれぞれの主観的な感覚の持ち主であり、それを変形させないまま、他人に手渡すことは不可能である。
以下、画面右から順に紹介
4.二人の見た世界 2016.09.
"画家"を演ずる青年と、その"画家"の描く作品を代行して制作する画家である私が、二人で同時に絵筆を持って描いた二人ペイント作品。通常、一人で絵を描くとき、画家は無意識の伸びやかさと理性の精緻さの狭間で葛藤を起こしている。つまり、精神は"無意識"と"理性"の二役に分離し、それをいかにして一つの身体で表現するのかという一人二役をやっているわけである。その点、二人ペイントは、二つの精神を、二つの身体で表現することができる。私が理性として筆を下すとき、その意識の外側で彼も筆を下している。あるいは彼が理性として筆を下すとき、彼の無意識の象徴は私である。
5.クレヨンによる小品群 (2点) 2016.03.~
音楽を聴きながら、朗読を聴きながら、あるいは人と対面し、会話する最中、即興的に描かれた小品群。腕の動きにダイレクトに応答するクレヨンでは、感情の微妙な動きが手触りを損なわずに表出することが多い。
6.そこに居る人々 2015.09.
言葉にならない、ただそのままの気持ち。
7.鳥の日 2016.09.
三連作第Ⅰ部。
触れると崩れそうな、あるいは指の間からするりとどこかに飛び立ちそうな、ある女の子の姿に少し似ているなと、後に見直してから思った。
8.国の日 2016.09.
三連作第Ⅱ部。
「国の日」とは、国というひとつの囲いの中に居た日の記憶のことを示している。
9.I-u frou U 2016.09
三連作第Ⅲ部。
I-u frou U [アイウ フロウ ユー] とは架空言語で、I will for youの意を示す。
天使には天使なりの言葉があり、祈り方がある。彼の祈りが誰かをすくい上げる事もあるかもしれない。あるいは祈る事で満たされるのは彼自身なのかもしれない。どちらにせよ、救い/救われるという出来事は、客観的な事象には縛られない、自由な心理内面での事象である。
10.go where you were. 2016.03
かつての自己が、自己の内面/外面の出来事を主観的に記録したものが記憶だと思うが、その記憶を現在の自己が見直して作られた"記憶の記録"は何と言えば良いのだろう。記憶の記憶。そしてそれをまた見返すことで生まれるのは、記憶の記憶の記憶か。記憶の記憶の記憶の…そうやって人の心理の中で、1つの事象は多面的にどこまでも展開していく。それと同じように、これから未来に起こる事象も、多面的に伸び広がっていくのなら、自己の拠り所は一体どこにあるのだろうと考える。
11.世界の中の音波 2016.06.
「世界の中の夕暮れ」の対になる作品。
長い耳で聴いているのは、不可聴域の音波である。
絵画作品において、そのもの自体を目で見ることはできないのに、視覚によって感覚することのできる重要な要素として 精神 が表現されることは多い。では、耳で聴くことができないのに、音色もしくは音楽のように感覚されるこの曰く言い難い感覚は何なのだろう、とずっと考えてきた。その不可聴域の音波を聴いているのが絵の中の子供である。あるいは彼自身がその音波そのものなのかもしれない。
12.向こう側の子供 2016.07~08.
ツラクモナイトという自主企画ライブイベント内で、藤間基(画家)と共同でライブペイントを行った板材に、絵を塗り足した。理性と絵画性よりも、無意識と肉体性の優先するライブペイントという場で生まれた作品は、普段我々が語り、遊び、苦しむ現世の水面の下側から、無意識という水の層を通してこちらを覗き込むような気がする。
以上です。
展示の応援をしてくださった方々、搬入は搬出を手伝ってくださった皆様(特にイザワさん)、展示を薦めてくださった夢画廊オーナーの中舘さん、そしてこれまで関わってきたすべての人へ心から感謝をささげます。
ありがとうございました!!
これからも精進していきますよ。