個展に向けて思うこと
9月末の個展"Go Whenever You Want to"に向けて、思うことをつらつらとTwitterに書いた。
それらを一部改訂して、まとめておく。
2016.07.14
昨日は、ものすごい数の死体をみた。昆虫の数を数える実験。ハエ取り紙に捉えられた600匹の死体。背中を丸めて皆死んでいる。原爆の後の地面のような感じ。縮小版原爆。 理系の学生として実験を終えたのち、画家としての私は貧血を起こした。自分はこんなに、死ぬことを気にしていたのかと知った。
ちょっと前に「gone」してしまったひいおばあちゃんとひいおじいちゃんが、goしてしまうすこし前の様子、光景を思い出す。
白内障で透明になった瞳、生きているのに樹脂のように透ける皮膚、ぽっかりと空いて戻らない口、喋れないつらさ、それでも意思がある。意識がある。愛がある。手を握ると強かった。
あんなに透けて透明になって痩せ細った身体でも、手を握るとぎゅっと、驚くほど力強く、命の動くところにそのまま素手で触れたような気持になった。死ぬほんの数日前の手に、ぎゅっと、命があった。驚くほどに鮮明な命が。
最近ちょっと思うところがあって、イライラしてて、事あるごとに「死にたいなら死ね。そのつもりでやれ。」とか思っていたんだけど、それは良くない表現だった。「死にたいなら死ね。」ではない、「死にたくないならどこまでも走れ。」って言いたかったのだ。
"Go whenever you want to”これは今度の夏の個展のタイトルなんだけど、それ以上に、なんかいろいろな思考と思いがもりもりになっている。
死には向かえない。走ってもつらい。どちらに行くにしても棘の道で、でもそれをかき分けかき分け進んでいくのが至上の喜びならいい。